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    独仏エリゼ条約50周年に思う

    1963年1月の独仏エリゼ条約から半世紀。記念行事と報道が続く。その歪曲された歴史物語にややうんざりしながら接している。

    『ヨーロッパ統合史』(名古屋大学出版会、2008年)をはじめ、いろいろ書いてきた。しかし、何を書いても、何度かいても、美しいストーリーは変わらず、独仏は和解したとなる。ドイツが贖罪してひざまずき、フランスが受け入れ、共通の教科書まで作って平和が訪れた、てな具合に、多くの不勉強なマスコミが報道する。しかし実態は相当ずれている。

    ドゴール仏大統領は、当時の6EEC加盟国の間で、仏を盟主とする安全保障共同体を作り、米英主導の西側世界に挑戦しようとした。その独善的リーダーシップにベネルクスやイタリアが反対した末に、(核問題等でアメリカ不信を強めていたアデナウアーの下の)西ドイツだけを残った。だから、独仏だけのエリゼ条約になったのだ。

    つまりエリゼ条約は、和解の象徴とされてきたが、失敗の帰結なのである。しかも、そのエリゼ条約の批准時に、ボンの西独議会は、安全保障についてはアメリカ主導の北大西洋条約(NATO)に矛盾しないということを新たに留保付けすることで、ゴーサインを出した。フランスの意図はくじかれたのである。(このあたりに一番詳しいのは、川嶋周一『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序――ドゴール外交とヨーロッパの構築 1958-1969』創文社, 2007年。)

    フェアに言えば、その失敗の帰結でできた独仏条約とそれに付随する制度化された協力精神が、青少年やエリート交流に果たした役割は大きく、たとえば一世代経ち、ベルリンの壁が崩れる瞬間に、積み上げてきた独仏の人的交流が両国関係の緊張緩和に大いに役立った。西独コール首相の外交顧問J・ビッターリッヒは、若い時分、ENA=国立行政学院に留学し、P・ラミーやM・オゥブリと交流し、フランス人の奥さんをもらっている。そうした人脈が、東独のスムーズな西独編入(つなりドイツ統一と東側ドイツのEC編入)に寄与した。(この辺の経緯は、『ヨーロッパ統合の脱神話化』ミネルヴァ書房、1994年にも書いた。)失敗は成功の元? いずれにせよ、意図、過程、帰結はずれており、歴史敵に単純には括れない。

    しかし、一筋縄ではいかない歴史を美化し祭り上げて、ひるがえす手で、日本は何をやっている!口調のディスコースがいかに多いことか、辟易とする。

    私は、日本の戦争責任については自ら厳しめの態度をとるくらいでちょうど良いと考えている。慰安婦の問題にも、手遅れになる前に今一度、きちんと向き合うべきだと思う。しかし、そういう態度は、恐ろしく歪曲されたヨーロッパの鏡に照らして弁証されるべきものではない。

    ましてや、ドイツ人の外交官や研究者が、ドイツは反省したのに、日本はなぜしない、というたぐいの道徳的優越感を露わにするとき、違和感を禁じえない。①ジェノサイドの出発点は(少なくとも悪のグラデーションという意味では)違う、②戦後の「和解」にも現在の「和解」プレゼンにもドイツの国益が濃厚に摺り込まれていた(る)。

    翻って、戦後の日本は、曲がりなりにも平和的・民主的に生きてきた。そういう日本に対し、内外でねじまがった鏡に映して不足だけをあげつらうとき、どの勢力が元気づくのか。日本の戦後(の成果)をもっと大事にするべきなのではないだろうか。
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    遠藤 乾

    遠藤 乾 (えんどう けん)

    北海道大学法学部、法学研究科、公共政策大学院教授(国際政治)

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