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    『週刊読書人』(2014年12月5日号)における水島朝穂さんとの対談余話

     『週刊読書人』という媒体に初めて登壇しました。ちょうど読んでいた『壽屋のコピーライター』という本で開高健がむかしこれに寄稿していたことを知り、半世紀前(1958年)創刊の歴史と伝統を感じます。
     今回(2014年12月5日号)は、原稿を書いて寄稿したのではなく、水島朝穂さんとの対談を起こしたものとなりました。趣旨は、岩波書店から8巻の<日本の安全保障>シリーズ(http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/028751+/top.html)が刊行され始めたことを期に、それがどの様な方向性を打ち出しているのか、編集委員の一人であり、憲法学の専門で軍事にも詳しい水島氏とのやり取りの中で、ふくらみを持った形で提示したいと考えたことによります。
     それが主たる趣旨なのですが、他方で同じ媒体で去る8月15日を前にして、古くからの(かなり親しい)友人である苅部直氏と細谷雄一氏が対談し、集団的自衛権に対する反対派への批判や、それと重なる形で一国平和主義への批判が展開されたこともあり、なんと「12月8日(!)を前に日本の安全保障を考える」という副題となり、その対談への応答的な性格を帯びることになりました。
     内容的には現物を読んでいただけるのが一番ですが、本シリーズの問題意識を、I.国家/人間中心の安全保障観、II.威嚇(=抑止)/安心供与の安全保障観の対立軸の中で、それぞれ後者に軸足を置くことを明らかにし、それを議論の中でさらに実質化したうえで、憲法9条と安保体制との関係、自衛隊や自衛権の位置づけ(含む憲法的承認)について、かなりオープンに議論しています。
     ほんのさわりだけやると、I.では、人間中心の安全保障を、①内省性、②人道性、③多様性の3点に分けて具体化していて、それぞれ、人間本位に見たとき、沖縄・福島など日本内部に存在する脅威に目を向け、手段や手続において人道的であることを求め(後述)、また多岐にわたるリスクをひとつひとつ取り上げていく必要性を説いています。II. では、「やったらひどい目にあわすぞ」という威嚇=抑止ばかりが強調される現政権の流れに対し、「(もう)ひどいことはしません」という安心供与の側面が、本来的には安全保障論の中にあるはずなのに、忘れられているという点を明らかにしています。
     自民党のなかにも、小渕・福田政権のように、対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約にコミットし、それにより人間中心の安全保障に資する日本をきちんと演じたときもあるのですが、そうした流れは安倍政権のもとでは傍流に追いやられて、国家中心の軍事安全保障ばかりが前景に躍り出ています。ちなみに、それについて触れた部分で、ゲラ段階で見落としていた箇所があり、対人地雷やクラスター爆弾の処理のために自衛隊を派遣することにコミットしたことになっていて、現物の原稿を読んだとき火を噴くように恥ずかしかったのですが、これはもちろん間違いで、自衛隊をそのために派遣することに両政権がコミットしたのではありません。ここでお詫びして訂正します。がともあれ、言いたかったのは、いわゆる「保守」政権のなかにもI. への志向性が実際にあったということであり、曲がりなりにも9条を維持し、軽武装と専守防衛に徹し、数々の政権が謝罪を積み重ねてきた(つまりII. にあたることを実行してきた)ことと併せて、I. やII. は私の夢想ではなく、げんに日本に根づいてきた実践であり、理念であったということでした。
     なお、行論のなかで、以前から気になっていた一国平和主義批判について触れています。というのも、その批判において、日本の平和主義者は、日本のことさえよければあとはどうでもよい、という身勝手な人たちであるという決めつけがなされているように感じていたからです。
     私自身、1990年代以降、人道的介入(humanitarian intervention)論には、共感も感じ、悩んでもきました。まるでユーゴやコソボへの介入がまるごと邪悪であるといった論じ方をする論壇の花形の政治学者と私的な場でやりあったこともあります。他国でひどい人権抑圧に遭い苦しんでいる人たちを何もせずに傍観していてよいのか、介入する場合にはどんな条件や手段のもとで許されるのか、イグナティエフやウォルツァーなどを読み、考えてきました。
     魔法のような解はありません。人権で整理すれば、一人一人のそれは平等に守られねばなりませんので、どこであれ、だれであれ、抑圧に立ち向かう必要があります。しかし、主権国家システムで覆われている世界においては、助ける相手の人権は平等でも、助ける主体の側のリスクやコストは平等に配分されないという問題があります。なぜ抑圧されているAを助けなければならないのか、という問題に答えられても、なぜCでなくBが助けなければならないのか、という問いになかなか答えられないのです。
     そのBにどうして日本がなれないのか、という問いには意味はあると思います。そして、平和主義に奉じる多くの人たちは、実際にはそれを問うてきたのだと思います。その問いに答えようとする中で、日本が得意とする手段――たとえば途上国の経済社会的な厚生の向上であったり、紛争国の秩序の再建のアシストであったり――によって、助けるという作業をできないか問うてきた人は大勢います。伊勢崎賢治氏はその一人でしょうし、またペシャワール会の中村哲医師などはそれを実践してきた9条擁護者ではないでしょうか。
     そういう人たちが考えてきたのは、目的においてだけでなく手段においても、人道的であるような支援です。そのような外からの平和的な「介入」の在り方を、「一国的」と切り捨ててよいのでしょうか。
     あるいは、ややこなれない言い方ですが、介入する際の手続において人道的であることも大事なのではないでしょうか。つまり、本当に考えうる他の手段が尽きたのち、軍事的な手段がどうしても必要とされる場合があることを私自身は認めなければならないと考える方なのですが、その場合でも、どんなに欠陥だらけの組織ではあれ、国連のような普遍的国際組織が承認できるような形で介入するという構えをとっておくことに意味はないのでしょうか。2003年、アメリカによるイラクへの侵攻が国連安保理の後ろ盾を欠いた中でなされた過程を振り返れば、国連が正統化・非正統化の回路として、世界中の人々の前で一定の機能を果たしていることが見てとれたのではないでしょうか。
     こうしたぎりぎりの正統化の末に限定的に軍事的手段をもって人道的介入を認める平和主義者の論考の結晶は、たとえば最上敏樹氏の著作『人道的介入』(岩波書店)に見出しうるのではないでしょうか。
     つまり、こういう思考の系譜を「一国平和主義批判」をするひとは、知らないか、知らないふりをし、意図的に無視しているのです。
     加えて、そのような一国主義批判をする人たちの方が、一国主義的である可能性があります。というのも、日本のように核兵器ですら持つ能力のある大国がみずから軍事的抑制をすることには、一国を超えた地域・世界的な影響力があるからです。そうした政策選択を「一国」平和主義と塗り固めた途端に、その含意の広がりをまるで捨象してしまっていて、じつは批判派の方が一国主義的な思考に陥っているのではなかろうか。
     このほかにも、かつて展開した9条=安保体制について(「日本の安全保障(雑感):9条―安保、軽武装―和解、中国―沖縄」)の国民的支持や、憲法学において漸進的に防衛(軍)や同盟を認めうる道筋についても触れています。
     ご関心の向きは手に取ってみてください。

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    遠藤 乾

    遠藤 乾 (えんどう けん)

    北海道大学法学部、法学研究科、公共政策大学院教授(国際政治)

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